斑尾高原の歴史・文化について

「八坊塚」という地名の由来

昔からペンション、ホテルが建ち並ぶ一帯は「八坊塚」と呼ばれてきました。ではその由来はどこからきたのでしょう?斑尾高原は長野、新潟両県にまたがり、高原内を通るメイン道路(県道97号飯山斑尾新井線)のおおよそ南側が長野県飯山市、北側が新潟県妙高市となっていますが、住所表記にはともに「八坊」という地名が使われています(飯山市大字飯山八坊塚、妙高市大字樽本字八坊主)。
飯山町誌によれば、「古昔斑尾東麓の往来は中々盛んで、現在の分道部落も元は荻原宿の新田で、永田村部落なども概ね斑尾山麓の街道に因由して発達したもので、その繁盛のために斑尾山の樹木を伐り尽くした。この街道が衰退したため、また今日の分道、すなわち荻原新田及び今は草野となっている問屋という古い部落の寺院等も生活出来なくなり、これら部落に住んでいた八人の僧侶が経文、仏像等をこの地に埋め、永年の供養をして退散した。時は今より661年前の永年元年(1293年)であるという。」と記されており、このことから「八坊塚」と呼ばれるようになったのではないかとされています。
このような歴史の記録から、平成12年には八人の僧侶を偲び、高原内に八体の石像が建てられ、「八坊巡拝」を楽しめるようになりました。

希望湖の歴史

正しくは沼池(ぬまのいけ)と呼ばれる希望湖は、斑尾山の噴火によってできた湖です。もともとは厚い火山灰に覆われた窪地に水が溜まった天然の池でしたが、江戸時代から堤防が作られ、また幾たびかの修築がなされ、ため池として利用されてきました。昭和28年からは8年間にわたる大規模な堰堤工事(総延長365m)が行われ、現在に至っています。今も飯山市柳原地区のかんがい用水源として用いられており、豪雪が生み出す豊かな水が飯山の稲作の一部を支えています。
また希望湖は信州に緑の深い日本画家・東山魁夷が絵のモデルにした場所としても知られています。「静映」と名付けられたその作品は、長野県県民文化会館の中ホールの緞帳としても見ることができます。

沼の原湿原の歴史

沼の原湿原にはかつて荻原宿と呼ばれた集落があり、最も栄えた享保年間(江戸時代中期/1716〜1735年)には75戸を数えたという記録が残っています。上杉謙信の軍勢が川中島の戦いのためにこの付近を越えたともいわれ、信濃の国と越後の国との物資や文化の交流に大切な役割を果たしたと考えられます。
大正時代に発電用貯水池として用地買収が行われ、大正15年には最後まで残っていた3戸も離村したとされています。その後計画は中断し、人家の絶えたこの地は、ミズバショウやリュウキンカ、ミツガシワ、カキツバタなどの湿原植物の生息地として格好の条件をなし、人知れずひそかに大群落を形成してきました。